パーソナリティブログ

原田時美 昭和平成歌物語 ~大川光久氏・学校の先生・坂上二郎氏~


3月1日放送の昭和歌謡玉手箱の1コーナー「原田時美・昭和平成歌物語」では
東京ご在住の大川光久さんと生電話をつなぎ、インタビューを行いました。


」」

大川光久さんは
故坂上二郎氏の「学校の先生」の作曲者です。
売り上げは30万枚を記録したそうです。
大川さん、い、い、印税事情は???との言葉は喉まで出かかって結局聞けませんでした笑



昭和41年、黒沢明とロスプリモスのデビュー作、「ラブユー東京」
オリコンチャート一位を記録!
向かって左側、ドラムの前の青年が大川光久さんです。
その後、藤圭子さんのマネージャー、そして
原田時美さんの花菱エコーズに所属したあと
「学校の先生」や「鉄道員」などのヒット曲の作曲をされました。
すごいですねーーーー




大川光久さんは、故藤圭子さんのマネージャーをされていました。
昭和44年に新宿の女でデビューされましたから
昭和41年のロスプリモスでのデビュー後に、藤圭子さんと出会ったのですね。
「藤圭子さんはどのような少女でしたか?」との問いには
「どこか陰のある少女でした」とのお答えでした。

今でも、原田時美さんが上京した折には一緒に食事をなさるそうです。
そして、今年、原田さんの関係事務所が東京にオープンし、
これから上京の機会が増えるそうです。
演歌で歌謡曲でヒット曲を作る!原田時美さんの精力的なご活動にはパワーをもらえます。 
大川光久さん、突然のお電話にも快く対応してくださり感謝します。
この場を借りてお礼申し上げます。

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私事ですが最近は、学校の校長先生や教頭先生と近しく話をさせていただく機会が増え
いろいろと考えさせられることが多々あります。
以下、「学校の先生」の歌詞の抜粋ですが・・

♪どうも幸せよりも不幸せな子のほうが
よく覚えているようです
・・・・・
考えてみると人間ていうやつは誰だって多かれ少なかれ
不幸せを背負って生きているようです・・・
みんな負けるなよ負けるなよ と私はそっとつぶやくだけです♪

とある遠い国では、学校の先生の職務は学校の敷地内だけであり
たとえ放課後の学校外の場所で生徒の非行に遭遇しても関わらない
のが当たり前という話を聞いたことがあります。
非常にドライな割り切り方です。
多民族国家であったり治安が悪かったり、複雑な事情が絡むと
そうせざるを得ないのかもしれませんし、良し悪しは判断できませんが・・・

坂上二郎氏の学校の先生のお姿には、包容力と無償の愛を感じます。
昭和49年発売、その要素が大衆の支持を得、大ヒットにつながったのでしょうか?


そういうわけで、「学校の先生」は永遠の名曲だと思いますし
昭和49年当時、この曲を聴いて元気をもらった子供たちも相当いたことでしょう。
のちの人生に相当の良い影響をもたらしてくれたんじゃないでしょうか
また、こんな先生に成ろうとインスパイアされ、実際に成れた子供もいたんじゃないでしょうか。
番組のお陰でこの曲に触れ、気持ちが洗われました。
作曲者の大川光久さんには心から敬意を表したいと思います。



 

投稿日時:2017.03.19(Sun) 00:20:30|投稿者:matsuyamay コメント(33)

原田時美 昭和平成歌物語 ~知られざる藤圭子さん~

今日の生放送当日、花菱警備保障会長の原田さんと会って第一声が
「原田会長!そのキャップかっこいいですね!どこで買ったんですか?いくらでしたか?」
といきなりファッションチェックをした僕はやはり性格が変わってるかもしれない。

さて、11月16日は、日本中で原田会長しか知らない藤圭子さんのエピソードと
「命預けます」のギター弾き語りをしていただきました。



昭和44年の「新宿の女」でのデビュー前の約一年間、藤圭子さんは
石坂まさを氏の自宅2階で下宿していたそうです。

盲目の三味線弾きの母と一緒に石坂氏の元を訪れ
最初に歌った曲が「カスバの女」だったと思う、と原田会長談。

昭和40年代当時の高度経済成長時代の下宿事情も話していただきました。
石坂氏の一軒家の2階は、障子で仕切られただけの3部屋。
そこに藤圭子さんが住んでいたそうです。
原田会長は、さすがに隣の部屋はまずい笑 ということで
一軒家の敷地隣の別棟に下宿したそうです。
トイレと水道は共同、食事は1階の台所で。
風呂はなし、ということは近くの銭湯に藤圭子さんも原田会長も行ってたそうです。

ある日、「銭湯いってくるねー」と藤圭子さんが原田会長へ。
しかし数分経って戻ってきた藤圭子さんに「どうしたの?」と聞くと
「途中で下着落としちゃったから帰ってきた」だったそうです。笑
誰か拾ったのか?値打ちものだから今からでも紛失届を出したいものです笑



「命預けます」は昭和45年発売の藤圭子さんの曲。
歌詞を紐解くとまさに藤圭子さんのデビューまでの境遇と心境を歌ったものです。
♪流れ流れて東京は、夜の新宿花園で やっと開いた花ひとつ♪
幼少期より門付で流れ流れ、そして東京へ辿り着いたんですね。
新宿花園、これは花園神社に「圭子の夢は夜開く」の歌碑があることからも
新宿花園が、デビュー出発点だったわけです。

♪こんな女でよかったら 命預けます♪
原田会長曰く、石坂氏は、藤圭子さんを自宅2階に下宿させるために
それまでいた原田さん他2名を追い出して笑、藤圭子さんを住まわせました。
つまり、下宿の収入源を断って、藤圭子さんに賭けたんだとか。
それに応えるように、歌に石坂氏に命を「預けます」と歌ったと、原田会長は語ってくださいました。

今の時代には聞かなくなった言葉ですね。命預けます。
濃い~~~~~ですね 情が
そこまで何かを犠牲にして命を賭けて
藤圭子さんは、石坂まさをさんはヒットを掴んだのでしょう。



上の写真は、僕の店の世界のチョコレートの一角にある昭和カフェの1コーナーです。
藤圭子さんの真っ黒な目と、若いころの和田さんのドヤ顔感、この真逆なコントラストが凄いですね!

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ラジオとは全く関係ないですが、最近、選挙カーで応援演説で叫んできました笑
下馬評では情勢厳しいと知っていましたが、たとえ敗れても、元気さでは、面白さでは負けない。
そういった意地というか戦う魂をマイクに乗せてみました。
そして敗れた直後、そして翌日の立候補者のAさんのいつもと変わらない明るい笑い声を聴き
「これが昭和男の侍魂」としかと胸に刻み込みました。
Aさんも原田会長も、昭和歌謡を通じてお付き合いをしていただき、
そして昭和の魂を感じることができて生まれてきてよかったなと思え、私は幸せです。
ではまた。

投稿日時:2016.11.16(Wed) 22:34:30|投稿者:matsuyamay

原田時美 昭和平成歌物語 ~石坂まさを氏と歌声喫茶と~

昭和29年ごろから始まった集団就職、
原田時美さんも都城から硬い木の椅子の列車に揺られ上京し一時は会社員でいたそうです。
地方から一人で友人も知り合いもいない大都会へ行き、
働く金の卵たちの寂しさを癒したのは歌声喫茶だったそうです。
まだカラオケもない時代、そんな若者たちが喫茶に集い、バンドの生演奏に合わせて全員で合唱する。
そんな空間で連帯感が生まれ出会いがあり、孤独を感じなくなる。
歌声喫茶が一世を風靡したのはごく自然なことだったように思います。

10月19日の放送では、歌声喫茶と出会いについて原田時美さんに語っていただきました。



写真は、遺影にも使われた、故石坂まさを氏です。
彼の奥様はまだご健在でいらっしゃいますが、石坂まさを氏と奥様を結びつけたのが原田時美さんだったそうです。

花菱エコーズでデビュー後、新宿有線でチャート一位を獲得するために新宿のスナックの営業廻り
そして歌声喫茶での生演奏など東奔西走されていた当時の昭和41年後ごろ
新宿の歌声喫茶「ともしび」にて、ある出会いがありました。
いつも柱の陰から見える同じ少女の顔がいつしか馴染みになり、ある日話しかけてみると、同郷の宮崎出身だったと!
意気投合し、石坂まさを氏にも紹介したそう。

それから原田時美氏は全国ツアーに回り、再会した半年後にはなんと!!!!!
石坂氏とその同郷の少女は夫婦となっていたそうなのです。
これには原田時美さんも驚き桃ノ木20世紀!←ピコ太郎かよ だったそうです。



写真は、宮崎に来県されたときの石坂まさを氏と原田時美さん。

なんでも、石坂氏は出会ったその日にプロポーズ、そして800円の指輪をプレゼントしたそう。
宮崎から上京した少女には、大都会で音楽プロデューサーと出会いその日のうちに電撃プロポーズで
婚約指輪までもらったわけですから、まるで映画のワンシーンのように思えたのでしょうか?
奥様は今でも、その800円の指輪を大事に持ってらっしゃるそうです。ええ話やー

800円という値段についてはちょっとコメントもしかねますが
気持ちがあれば祭りの屋台のおもちゃの指輪でもいいわけですしね!(と決めつける)
そういえば、話それますが、天城越えという映画で田中裕子扮する遊女にもらったマッチ箱を
後生大事に持ってた少年、人生の最後に手からそれがポロリと落ちたシーンを思い出しました。

当時まさに天下を取った石坂まさを氏と苦楽を共にした奥様と、原田さんはいろんな話をされたそうです。
大ヒットによって大金が入ってくるものの、当時の週刊誌にいろんなことを書かれたり
藤圭子さんの最期についても取材が殺到し、心身共に参ってしまい、
そんなことは放送では言えませんが、原田時美さんから伺いました。

ヒットを飛ばすだけの才覚を持つ男はやはり並の人間ではなく
山口百恵じゃないですが、人よりたくさん良い目にあって、人よりたくさん悲しんだ・・・と他人事でスミマセン・・・・



下の写真は、まだ公民館を回っていたころの島津亜矢さんの名刺です
音楽事務所も経営する原田時美さんのお仕事で出会ったそうです。




下は、宮崎の飫肥に、藤圭子さんと一緒に来県されたときのもの
原田時美さんの藤圭子さんへの思い出が込められている気がします




この日は放送では言えないような、藤圭子さんへの思い出なども
スタジオ控室で伺いましていろいろ考えさせられました・・・・
いろいろ思うところもありますがちょっとここにも書けないなー

明日、正確には本日の正午から、生放送で番組をお届けします。
今はその準備中であるんですが、楽しみなのは、
黒澤明とロスロスプリモスとの絡みなどを語っていただけるとのこと。

ロスプリモスといえば
ラービューラービューーなみだーのトーーキョー
ギンザ ギンザ ギンザ ギンザギンザギンザ たそがれーのギンザー 
って感じのムーディーなムード歌謡ですね!

他にもいろいろ世界のチョコレートのプレゼントや、みやこんじょ弁歌姫ふじこちゃんコーナー
その他コーナーはがき盛沢山でお届け予定です♪乞ご期待お楽しみに♪

投稿日時:2016.11.02(Wed) 00:15:20|投稿者:matsuyamay

原田時美 昭和平成歌物語 ~藤圭子~

2016年9月からの新コーナーは、花菱警備保障会長、
そしてムード歌謡全盛の昭和43年に花菱エコーズでデビュー、
西海ブルースなどの名曲を残した原田時美(花菱健)氏による
「原田時美 昭和平成歌物語」です。

第一回目の9月7日は、故藤圭子さんにまつわる思い出話
そしてギター爪弾き、新宿の女の生弾き語りをご披露くださいました。
藤圭子フェチ?かもしれない僕にとっては大変興味深い話でした。
原田さんは、集団就職で都城より上京、そして間もなく音楽のプロの道へ。
故石坂まさを氏に弟子入りし、同じ屋根の下で藤圭子さんとレッスンをしていた歴史があります。




♪ネオン暮らしの蝶々には 優しい言葉が染みたのよ♪
あまりにも有名な新宿の女の1フレーズです。
蝶々 つまり夜の蝶という言葉も今や死後でしょうか
まだ初心というか純な少女がなんとなく染まれない夜の世界で
おそらく客の優しい言葉にほろりとくるわけですね。

♪ネオン暮らしの蝶々には 財布の厚みが気になるの♪
というのがある意味デフォみたいなもんかなと思う昨今においては
なかなか衝撃的な響きもあるように思います笑
所謂、ワケアリでその世界に飛び込んできた、純な美少女 という設定なわけですね。

ところで、ヒット曲が生まれる背景には、作られたイメージというのもあるのかな?と思ったりします。
といいますのが、五木寛之氏が藤圭子人気全盛時、
プロデューサーの石坂まさを氏と
藤圭子氏をモデルにした小説を発表されていて
その中では、「作られた不幸」が描かれています。
ヒット曲のイメージを保守するため私生活は実は明るいんだけども、
あえて陰のある少女を演じていた というわけです。
(あくまでも小説の中では)

このことについて、原田時美さんに率直に伺ってみました。
「藤圭子さんのイメージって、地だったんですかね?」
デビュー前もデビュー後も藤圭子さんと間近で接してきた原田さんは、
「地だと思う」と仰いました。
少女時代に北海道を中心とした門付け生活を送り、子供が見なくてもよいものを
たくさん目撃したであろう藤圭子さんの歌声は、まさにルサンチマンのこもった怨歌であり
それがデビュー当時の若さと、人形のようなルックスに救われ、到底真似のできない輝きを放ったわけです。

石坂まさを氏は、藤圭子さんの歌声をあえて、レッスンでは手を加えなかったと原田さんは仰っています。
他者がどんなにレッスンをしても到底出せない、独特の藤圭子さんの歌声は、壮絶に魅力的であり
それは幼少期に目撃せざるを得なかったであろう、人の表裏や裏街道の哀しみと
生まれもった類稀なる才能とのコラボが生んだ賜物だということなんですかね。

ところで 優しい言葉が染みる蝶々 が昭和40年代当時はたくさんいらっしゃったんでしょうかね?
そこらもそのうち、原田さんに伺ってみたいと思います笑
財布の厚み は現実的で必要ではありますがやはり、そこには情緒を求めたいものですよねー
新宿の女 にはそういった、父性本能をビシバシ刺激するような、くらくらするような濃密な情緒がいっぱいに詰まっています。
五木寛之氏もそうなんでしょうが、当時藤圭子さんの虜になったファンは相当にいたでしょうね。

「昭和歌謡は本当にいいよね」という人たちが年々、増えてきておりブームの兆しが見えております。
原田時美さんとのコーナーを通じて、思うところをこれから少しづつ書いていこうと思ってます。
では今日はここらで~。

投稿日時:2016.10.05(Wed) 23:15:55|投稿者:matsuyamay

上野駅から九段まで

かってしらない じれったさ
杖を頼りに 一日がかり
せがれきたぞや 会いに来た

あまりにも有名な昭和14年・九段の母ですが、この歌はおそらく日清・日露または日中戦争によって戦死し
靖国に祀られた息子に会いに、東北あたりから汽車に乗ってやってきた母親の物語だと思います。

この歌があまりにも好きで、歌が描く物語を実体験しようと
実は僕も上野駅から靖国まで、実際に歩いてみたことがあります。
おそらく歩くも苦労する腰の曲がった母親が、杖を頼りに、道行く人々に聞きながら、まだ舗装されていないであろう
昭和10年代の不案内な道を、丸一日かかって上野駅から、かの神社へ辿り着くわけです。

今の時代はGOOGLE MAPで簡単に道順を調べることができます。
西郷さんの銅像や不忍池を横目に見ながら真っすぐ、そして秋葉原を通りすぎ、途中で右折
古本の町・神田神保町を通りすぎ、しばらく行けばもうそこは靖国です。
途中でドトールに寄ったのですが笑、僕の足では一時間半でした。
距離にして4km強。

空をつくよな 大鳥居 こんな立派な お社に
神と祀られ もったいなさよ 母は泣けます 嬉しさに

最初に見えてくる大鳥居は確かに大きい、しかしながら現代の高層ビルディングを通り抜けながらの
一時間半の小旅行のエンディング光景としては、空をつくようにはとても見えない・・・・
しかし、昭和10年代当時では、お年を召した母親には、さぞかし空に届くような高さに見えたのでしょう。
母は泣けます 嬉しさに とありますが
やはり当時の戦時感情は、息子に先立たれてさえもこのような思想を強いる
有無を言わさない空気が当たり前だったのだろうと推測され、胸が痛みますね。

故美空ひばり氏が、父親が太平洋戦争に招集されてその出陣式の時に
リンゴ箱の上に立って九段の母を歌ったのがおそらく8歳か9歳のころ
彼女の子供のころの歌声を聴くと、上手さはもちろんですが
声の中にある哀愁、ものがなしさに心を奪われますが、
こういった子供のころの原体験が
あの情感・そして超絶技法的歌声の礎になってるのではないかと勝手に思っております。
番組放送中に、子供のころの美空ひばり氏の歌を流すと、いつもそう感じます。

さて、この歌の3番ですが

両手合わせて ひざまづき 拝むはずみのお念仏
ハッと気づいて うろたえました 倅許せよ 田舎者

この情景を思い描くと、当時もしかすると学も無かったかもしれないこの老いた田舎の母親の
しかし、学歴ではない真のインテリジェンスのようなものを感じるのです。
つまりは、神となった息子へ、仏であること前提の念仏は的外れとなるわけですね。
倅許せよ と謝る母親があまりにも不憫でなりません・・・

おそらくは、九段の母のような母親が当時沢山いて、歌のモデルになったのだろうと思うのですが
母親の亡き息子への未練や寂しさ、怒り、慟哭、そして諦観、そんな感情が歌の端々に感じられて
ものすごくウエットで情感にあふれた名曲であり、もっと番組で紹介したいなと思っております。
しかし、本当に番組中に時間がない・・・・・・


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さて、現在8月14日の深夜、終戦記念日が目前ですね
次回の僕の番組ではすでにほかのテーマとゲストが決まっており
終戦にちなんだ話題も少しはどこかで・・・・と思いながらこの文章を書いております。

同期の桜 も同じくあまりにも有名ですが
5番の歌詞にこんなくだりがあります。

離れ離れに散ろうとも 花の都の・・・ 春の梢に 咲いて会おう

つまりは、離れ離れになって命がなくなっても
かの神社の同じ桜の花に生まれ変わって会おう

という意味ですね。時空を超えた果てしないロマンが
込められているんですね。思わず言葉に酔ってしまいそうです。
番組を担当させていただき5年が過ぎましたが、こういった数々の曲に
出会えたことは、かけがえのない財産です。
というのが、精神の安定度という点では5年前と今とでは段違いなんですね。
それは、昭和歌謡によってもたらされた心の平定だと思っております。

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昭和時代は63年間あり、昭和歌謡といってもカテゴリは無数にあります。
僕の勝手な感覚で大きく分けると、ビートルズの来日あたりから、楽器の音に頼った曲が増え
阿久悠プロデュ-スの沢田研二・ピンクレディの出現あたりから
歌声にプラスして衣装や振り付けの、テレビを意識したショー的要素が増えた。
僕の個人的趣向を申しますと、昭和20~30年代の、歌詞の日本語に徹底的に拘り
歌声で勝負していた昭和歌謡が好きです。
それも戦前の歌なども大好きです。
例えば、「惜別の唄」

別れ、じゃないですよ、惜別です
旅行ファッション、じゃない、旅の衣を整えよ です。
この歌も太平洋戦争中に作られた歌だと思いますが、中央大学の学生歌のようです。
奥の細道的要素、古人も多く旅に死せるあり、ですね
命をかけた旅、つまり戦地に赴く学友を歌った歌のようですが
こういった、生死が隣り合わせの心境で作られた作品にはとてつもない凄みがあります。
そういったまとわりつく壮絶さというものが垣間見える曲に虜になってしまった5年間でした。

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次の放送、8月17日は、21日のMJホールで行われるお雪物語の
関係者の方々がお越しになり、いろんな制作裏話などもOAできればと思っています。
番組を通していろんな分野の方々と仲良くなれ、いろんなものを創り上げていく
大変幸せだと思っています。
そして間もなく8月15日に日付が変わろうとしております。
あらめて、戦争にまつわる様々な方々へ心から追悼の意を表したいと思います。

ではここらで。

投稿日時:2016.08.14(Sun) 23:57:23|投稿者:matsuyamay
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